レシピやお店の
リンク集 |
| 野菜や果物の料理 |
 |
| パスタ料理 |
 |
| 沖縄料理 |
 |
| 世界の料理 |
 |
| カレー |
 |
| 中華料理 |
 |
| ヴェジタリアン料理 |
 |
| お弁当 |
 |
| 麺類 |
 |
| 漬物 |
 |
| パン・お菓子・ケーキ |
 |
| 産地直送 |
 |
| お役立ち情報 |
 |
| お店情報 |
 |
| 勝手にお気に入り |
 |
| ダイエット情報 |
  |
| かんたん相互リンク |
 |
|
| 尿路結石の摘出手術をしました. |
|
今月、尿路結石の摘出手術をしてきました。
1週間の入院でしたが、土曜日に入院をして手術の説明やら麻酔の説明など詳しく説明をしてもらい、月曜日に手術をしました。
全身麻酔と局部(下半身)麻酔のどちらかを選べるので私は全身麻酔にしてもらいました。
だって、局部麻酔だと目が覚めていて手術中の様子がわかってしまうんですよ、そんなところにいたら、気が弱い私は失神してしまいますよ。
同じ気絶をするなら最初から寝ていたほうが良いですもんね。^^!
手術の仕方は尿管(オチ○チ○)から管を差込み、レーザーで石を砕くと言う方法なんですが、これから私と同じ方法で手術をする方もあるかもしれないので詳しくは書きませんよ。(あまり詳しく書くと病院にいかなくなるかもしれませんものね)
|
| 最初の病気は胎毒(たいどく).です |
|
私の病気遍歴の最初は生まれてまもなく胎毒(たいどく)ができ、顔や身体中に湿疹のようなかぶれたような状態になり、全身が痒いのだそうです。
それで生まれて間もないと言うこともあり、無意識に痒いところをかいてしまうので真夏でも手に手袋をかぶせていたと、母親が言っていました。
これがかなりひどく、当時の医学ではこれと言った対処法もなかったらしく、幼い私を抱かえてあちこちの病院に行ったそうです。
それでもよくならず、あそこの宗教団体に入ると直るよと言われてはそこに入信し、ここが良いよと言われればこちらに入り、そんなことを数限りなく行ったそうです。
最終的に年齢と漢方薬で治ったそうですが、私の後頭部にはそのころ出来たこぶのような腫瘍をとった後が今でも残っています。
幸い良性腫瘍だったらしく大事に至ってないのが、何よりです。
その後の大きな病気は保育園に通っていたころ高熱(40度〜42度)を出し毎日うなされていました。
今でも思い出すのですが、広くて大きな部屋に私一人が立っており、そこにそれはそれは大きな石が私をめがけて転がってくるのです。
私は怖くて逃げ出すのですがどこまでもどこまでもその大きな石が追いかけてくる。
『こわいよ〜、こわいよ〜』と大声を上げて泣きながら逃げ惑う、そんな夢を朝から晩まで、そして毎日見るんです。
何の病気か忘れましたがそんな高熱が3、4日続いたらしいです。 |
| 私は、登校拒否の経験があります。 |
. |
私は、登校拒否の経験があります。
それは、小学校に入学するころにさかのぼりますが、私の実家は漁師町にあり魚の水揚げ量も当時は日本で有数の魚港の近くで漁師を相手に定食やお酒を出すお店を開いておりました。
町全体が活気がありましたから、当然両親は私たち子供の面倒を見ることがあまり出来ませんでした。
私は、保育園に預けられそこで幼い時期を過ごしました。
そして、小学校の入学式の日、私は一人で学校に向かいました。
えっ両親は?と思うでしょうが、先にも述べたように両親は朝早くから夜遅くまで漁師を相手に商売をしていましたから、学校に一緒に行くなんて事の余裕がなかったんだと思います。
小学校の門をくぐり、私と同じように入学してくる子達の後について校舎まで行きましたが、皆は掲示板を見ながら各自の教室に向かっていきました。
私は、掲示板を見ながらずっとそこに立っていました。
周りには誰もいなくなりましたが、私はそこから動くことが出来ませんでした。
私は、字が読めなかったのです。
しばらくすると、先生が近寄ってきて、「どうしたの」と訊ねられ、字が読めないから教室がわからないと言うと、私の名前を聞いて教室を探してくれそこまで連れて行ってくれました。
「ここが、君の教室だよ」と教えられ先生は去っていきましたが、私は教室の後ろでただ黙って立っていました。
担任の先生が、「皆さん、自分の席に座ってください」といい、皆はそれぞれ自分の席に着いたのですが、私はまだ教室の後ろに立ったままでした。
先生が、「どうしたの、席に座らないの」と聞いてきましたが、私は「自分の席がわからない」と応えると「机のところに名前がはってあるからすぐわかるよ」といわれました。
私は、保育園で育ったのですが、当時の保育園は子供を預かり、お遊戯や昼寝などをさせて一日をすごさせるといった環境で勉強など行っていませんでした。
当然、私は自分の名前の書けない、読めない子供になっていたわけです。
席に案内され、そこに張ってある名札を見て自分の名前がこんな形をしているのだと、初めて知り、その形を一生懸命覚えました。
幼稚園に通っていた子供たちは、字も書けるしある程度の勉強をしてきているので、勉強をするという行為が自然と身についているのですが、私は何もかもが初めての経験で、かなり戸惑っていたのでしょう。
当然、私は学校が嫌いになり、学校に行かなくなってきました。
朝一人でご飯を食べ学校に行くのですが、途中で寄り道をします。
多分、色々なところをうろうろしていたのではないでしょうか。
私が今でも思い出すのは、鍛冶屋が近くにありそこに朝から夕方までいたことです。
鍛冶屋ではのこぎりや鍬などを作っていましたが、大人たちが真っ赤になった鉄の塊を大きなかなづちで「トンカン、トンカン」とたたきながらのこぎりや鍬の形に作っていくのが面白く、毎日そこに顔を出し見ていました。
最初のころは「君はどこの子?」「学校に行かなくていいの」と言われましたが、私は名前も、家の場所も言わないで黙ってみていました。
お昼になったら帰るだろうとそこの人たちは昼食に席を立つのですが、私は近くに港がありそこに防波堤があります。
その上に鰹節の材料にする魚が蒸した後天日干ししてあり、それを盗んで食べていました。
そして、昼休みが過ぎるころまた鍛冶屋に戻ってその作業を見ているのです。
あるとき家に帰ると父親が「学校は面白いか」と聞くので「うん」と応えると「鍛冶屋は面白いか」とまた聞かれました。
私は何も考えず「うん、面白いよ」と応えると、学校に行っていないけどどうしたのかと怒られ、字がかけないし読めないからと言うと父親が自分の名前くらいは読み書きできるようにと、一生懸命教えてくれました。
もちろんひらがなですよ。
担任の先生と両親がどのようにして私が学校に行くようにしてくれたのかは覚えていませんが、登校拒否は3年生くらいまで続いたように思います。
今から45年ほど前のことで、まだ「登校拒否」の言葉さえないころでしたからわたしがルーツかもしれませんね。
|
| 小児喘息の苦しみ。 |
. |
私が小児喘息になったのは小学校3年生のころだと記憶しています。
最初のころは、咳が出てのどが『ヒューヒュー』鳴っていてそんなに苦しい思いはしなかったのですが、月日がたつにしたがって息が出来ないなど苦しい時間が長くなってきました。
喘息を患った期間は中学2年ころまで続きましたがその間、学校も休みがちで1年のうち半年は学校を休んでいました。
3年生のころ苦しくて苦しくてどうしようもなく、早く死んじゃったら楽にんるだろうといつも思っていました。
ある日のことですが、日中喘息の発作がおき苦しくなってきたのですが、いつもと違い息が出来なくなってきました。
『苦しいよ〜』といいながら泣いていましたがあまりの苦しさに部屋中を駆けずり回ったことが今でも忘れられません。
このときは苦しさのあまり失禁してしまうなど本当に苦しい思いをしました。
死に損ないました。1
小学校4年のころいつもの発作がおき布団で苦しんでいたところいつもと違う様子に親が気がつきかかりつけのお医者さんを呼んでくれましたが、私はそのときは苦しさのあまり気を失っていました。
注射をしてもらい気がつきましたが、もう少しで死ぬところだったそうです。
喘息の苦しみは喘息になったことがない方にはわからないと思うのですが、布団に寝ていても上を向いて寝ていらねないのです。
うつぶせになり布団を丸く俵のようにしてそこにもたれかかりながら寝るのです。
そうしないと気管支が痰でつまり息が出来なくなってしまいます。
毎日、毎日このような格好で眠りにつくのですから休まったものではありません。
姿形も猫背になりさらに気管を圧迫して喘息になりやすい体形になってしまいます。
死に損ないました。2
小学校6年になったころまた重い発作がおきました。
私は意識が朦朧としてお医者さんを待っていたのですが、駆けつけたお医者さんが私を診ながら両親に『この薬を使えば多分よくなると思うのだがこの薬が効かなかったらあきらめてくれ』といっているのがわかりました。
それは薬が効かなかったら死を意味するということは私にもわかりました。
太くて大きな注射器を私にさしながら、気持ちが悪くなったら言ってねといいながらゆっくりゆっくり注射液を入れていきます、それは、それは時間をかけゆっくり注射をしていきます。
程なく私は気持ちが悪くなり嘔吐しました。
何度も何度も嘔吐を繰り返し泣きながら注射を受けていましたが、そのうち呼吸が楽になり普通に息が出来るようになり、上を向いてゆっくり寝入ってしまいました。
上を向いて寝るなどここ数年なかったことで私はこの初めてに近い快感を今でも忘れません。
大きくなってから両親に聞いてのですが、私を死から救った注射は保険が利かない未承認の薬でお医者さんも賭けに出ていたようです。
もちろん未承認ですから金額も馬鹿高かったそうで、両親にすまない思いをしました。
死に損ないました。3
20歳になったころ私は再び喘息に悩まされていました。
実は高校3年になる前に喘息が再発し学校を中退することになりました。
そして、そのときに良く使っていた喘息の発作をおさめる薬が薬局で販売されたのです。
その薬の名前は『メジヘラーイソ』という名前で、映画などで子供が発作がおきたときに口から薬を吸っているのを診たことがないでしょうか、L字型をしていて穴の開いたほうを口にいれ薬が入った容器を下に押すと霧状になって薬剤が出てきます。
この薬剤を吸い込むことによって気管の通りがよくなって呼吸が楽になります。
このときの気持ちは発作で息苦しいときに吸入すると一気に呼吸が楽になり気持ちがよくなりふわふわしたような気分になります。
私は麻薬はやったことがないのですが、多分このような気持ちになるんだろうなといつも思っていました。
確か、その「メジヘラーイソ」は100回くらい使用できたように思うのですが、価格は1万円弱だったように思います。
その高い「メジヘラーイソ」が離せなくなりいつも携帯していました。
20歳になるころにはその「メジヘラーイソ」も1回の発作で新品を使い切ってしまっていました。
100回使えるのにたった1回の発作でなくなってしまうんです。
1万円が1回の発作でなくなってしまうんです。
一日に何度も発作がおきていましたから、両親は大変だったんじゃないでしょうか。
その「メジヘラーイソ」が効かなくなったころ事件がおきました。
かかりつけの病院で発作がおき治療をしてもらっていたのですが、発作がおさまらなくなり、呼吸困難になってしまいました。
病院で診療が出来なくなり総合病院に救急車で搬送されそこで治療を受けたのですが、当初集中治療室で治療を受けてその晩個室に移されました。
まだ呼吸困難が続いており、深夜になってもおさまりませんでした。
病院の治療が効いたのか、明け方発作もおさまりそのまま就寝し、1週間ほど個室で過ごした後、6人部屋に移りました。
そこで、同室の方に聞かされたのが入院していた個室は3人続けて亡くなっているということです。
私が入室した前の晩も亡くなっていたそうです。
そして私も亡くなるとみなが思っていたそうです。
個室に担ぎ込まれたとき、深夜苦しんでいると何かが呼んでいるようなことがありました。
うなされている私を母親がお経を唱え神様、仏様に助けてくれるようお願いしてくれたそうで、そのおかげで向こうに行かずにすんだかもしれませんね。
喘息は25歳くらいまで続いたのですが、23歳のときに結婚して家内が看病してくれたのと、自営で力仕事をしていたのが幸いしたのかすっかりよくなりました。
53歳を過ぎたあたりから気管支炎になりまたあの悪夢がよみがえりましたが、おかげさまで気管支炎を改善する『フルタイド』を吸入しているのでそんなに気にならなくなりました。
|
| おいしかった |
|
私の田舎にうまい蕎麦屋がオープンしたと同級生から聞き、今度帰省したら寄ってみるか。
なんて思っていたらこの夏に返ることが決まり、よし、この間 聞いた蕎麦屋に寄ってみようと決意した。
蕎麦は田舎では珍しく、どちらかと言うとうどん文化が根付いている地方なので、『本当にうまいのかな』と疑っていた。
と言うのも、私はうどんより蕎麦のほうが好きで、良く遠出をしてほうぼうの蕎麦処に蕎麦を食べに行くのですが、うまい蕎麦屋さんにはめったに出会えない。
私の住んでいる近辺の蕎麦屋さんも『これは美味しい』と絶賛するお店がないことが、私の疑念を払拭されない理由です。
私の住んでいるところから田舎まで車で10時間から12時間、距離で650kmくらい。
今回は、私と家内、長男夫婦と1歳の孫の5人で田舎に向かいました。
前日の21時ころ出発したのですが帰省渋滞に巻き込まれ、断続的に続く渋滞の中、長男と私で交代に運転しながら田舎に向かいました。
田舎に着いたのが13時ごろ、さっそく父母が眠るお墓に参りました。
墓参りも済まし、噂の蕎麦屋に向かいました。
中略
見ると、普通の蕎麦の太さではなく細麺(直径1mm)だったので驚きました。
中略
麺はと箸で一本つまみ、口の中に放り込むと、麺の口当たりが良くしこしこ感も程よく腰の強い麺で、見た目とは大きな違いに驚きました。
全文を読みたい方はこちらから |
|